吉田山藥王院のご紹介

薬王院の地理的位置

薬王院周辺空撮
(国土地理院,昭和61年10月20日撮影)

吉田山神宮寺薬玉院は、水戸市元吉田町に所在する。この地域一帯は、那珂川の支流、桜川右岸上の台地であり、北部はこの桜川及びその開析谷に形成された千波湖をはさんで水戸市の中心を乗せる台地と対峙する。中央に県道水戸長岡線が南北に走っている。薬王院は、この県道から西に200メートル入った場所に位置する。薬王院の周辺には、かつての常陸三の宮である吉田社や装飾古墳として著名な吉田古墳(国指定史跡)がある。

この薬玉院の所在地元吉田町は近世の吉田村であり、近代になって水戸市吉田と吉田村に分離し、水戸市に編入される時に水戸市吉田と区別するために元吉田町と称したのである。吉田神社


薬王院概要

寺院名 吉田山 神宮寺 薬王院(よしださん じんぐうじ やくおういん)
住所 〒310-0836 茨城県水戸市元吉田町682
TEL/FAX TEL:029-247-6266/FAX:029-248-3550
宗派 天台宗(天台法華円宗)
本山 総本山比叡山延暦寺 →HP
本寺 青蓮院門跡 →HP
本尊仏 薬師如来(茨城県指定有形文化財)
創立 延暦年間(782~806)桓武帝勅願所として

吉田山神宮寺薬王院のあゆみ

桓武帝勅願所扁額
(桓武帝勅願所扁額 )

吉田山神宮寺薬王院は、関東で唯一の青蓮院直末の天台寺院である。

平安初期に桓武天皇の勅願所として建立されたと考えられるこの寺は、常陸三の宮の吉田社の神宮寺として国家安全の祈祷をつとめ、この地方の豪族である常陸大掾氏と密接な関係をもって、その帰依と同時に保護をうけてきた。

鎌倉時代以降、栄智・広海・成珍と相承したが、なかでも成珍は、税所氏の養子となった石河忠成の孫で師僧都と尊称され、山本郷・吉田郷を相伝し、一分地頭として鎌倉幕府の御家人的な立場になっていた。このようにして鎌倉幕府とのつながりが深くなるとともに神宮寺は「公家・武家兼帯の御祈祷所」として次第に吉田社の支配から離れ、独立したあゆみを進めるようになった。

南北朝初期

南北朝初期には、北畠親房に天下静謐の祈祷を命じられており、吉田山神宮寺を中心とした地域は、一時南朝の勢力下にあったが、南朝の敗退とともに足利氏の支配下に入り、足利方の大掾氏とかかわりを持ってくる。また鎌倉末期に大仏宗宣によって大宝八幡宮の別当に補任された神宮寺別当成珍は、それ以前に大宝八幡宮の別当であった覚舜-舜海-舜聖の系統の人々と争いを続け、南北朝期に入って、貞和元年(興国六・1345)に舜聖を退けて別当の地位を確保し、吉田山神宮寺と大宝八幡宮の別当職は、吉田氏流で大掾氏の一流である石河師僧都成珍の流れに掌握され、成珍-良珍-康珍-頼珍と相承した。

室町期

室町期に入って、応永廿九年(1422)には、神宮寺の外護者であった大掾氏も河和田城の江戸通勝のために水戸地方の本拠を奪われ、大掾氏の勢力が府中(現在の石岡市)に退いたために、薬玉院は新たな領主江戸氏の外護をうけるようになった。神宮寺としての性格が薄くなったことと、外護者の変化が呼称を変えたのであろうか、長い間神宮寺と呼ばれていた吉田山神宮寺は、この頃から吉田山、あるいは薬王院と通称されるようになった。

大永七年(1527)6月11日、薬王院の本堂が焼失したが、江戸氏の外護のもとに竪七間の本堂が再建された。享禄二年(1529)8月に棟上げが行われ、翌三年10月8日に入仏式が行われた。この時の棟札の写しには、大檀那として、前但馬守藤原道泰、御息彦五郎忠通、次男五郎三郎通延とともに、本願主前別当権大僧都法印大和尚位快舜や神宮寺の六供である角坊鎮海、四坊常栄、南坊栄祐、北坊栄善、東訪祐胤、中坊舜祐が願主として名を連ね、新たな領主江戸氏の外護のもとで薬王院の全勢力を傾けて本堂の再建が行われた事を示している。

この後、大正七年にも藤原前但馬守重通が大檀那となって修復が行われており、少なくともこの頃まで江戸氏が薬王院の大檀那として外護していた様子を知ることができる。本願主は大僧都賢尊、脇願主は閑居権僧正尊忠である。

天正七年の修復に先きだち、天文十七年(1548)に尊忠法印は、旧記や綸旨が紛失していることを憂い、あらためて青蓮院門跡から桓武天皇の勅願所であったことを証する門額を拝領している。

常陸国では、天文年間から天台宗と真言宗との間で素絹の衣を着用する特権をめぐって相談がおこっているが、大正年間の相談では薬王院がその拠点となり、別当尊仁が水戸十ケ寺(吉田山、法円寺、如意輪寺、円福寺、長福寺、観音寺、仏生寺、西福寺、西徳寺、満福寺)を中心に常陸の天台寺院をまとめ、相論の解決につとめている。

大掾氏に代って薬玉院の外護者となった江戸氏も、大正一八年(1590)12月に、重通が佐竹義宣のために水戸をおわれ、薬王院は佐竹氏の支配のもとにおかれるようになった。義宣は、本拠地太田の一乗院を吉田山薬王院に移し、江戸氏の出身である薬王院別当尊仁を退けて、佐竹義盛(山入氏)の子弘喜を入寺させたために、長い間、吉田・那珂郡の天台寺院であった薬王院は、一時真言宗一乗院へ変ったが、佐竹氏が秋田に移ったのち再び天台宗に復している。

江戸時代

水戸市 丹澄氏所蔵 「水戸城下絵図」
(水戸市 丹澄氏所蔵 「水戸城下絵図)

江戸時代の吉田山薬王院は、朱印地五捨石を領して、寺中六ケ坊、末寺八ヶ寺、門徒十一ケ寺を擁し、水戸藩の菩提所として代々の水戸藩主の帰依が深かった。なかでも徳川光圀の帰依は特に深かったようで、万治元年(1658)11月3日に若くして不帰の人となった妻泰姫(法光院殿)の菩提所とし、天和二年(1682)には、泰姫の二五回忌の大斉会を営み、翌3年3月には、本尊薬師如来の修復を記念して開山以来秘仏であった本尊を開帳している。更に貞享五年(1688)には、酒井藤内、中嶋甚五衛門を奉行とし、橋本源衛門、福生弥左衛門らを大工棟梁として本堂を再建している。この時、南向きであった本堂が東向きに変えられ、床と縁が撤去され、全面土間となり、建物は全く禅宗様の形態に変わった(昭和四三年に着手された薬師堂の修復工事では、貞享時の改変を建立当初の姿に復旧している)。

元禄二年(1689)9月、光圀は、薬王院が古くから青蓮院の法流(三昧流)をくむ直末寺であったのに佐竹氏による改宗以来断絶していることを憂い、青蓮院末に復させ、同十年には水戸藩では唯一の天台宗檀林所にとり立てている。薬王院は、同一二年には関東八檀林の一つに認定されているが、これも光圀の希望であったようで、談所を整備するとともに長楽寺に住していた良運大僧正を迎え、水戸地方では唯一の談所として、学徳の高い学頭のもとで学生の研学が行われたのである。

一方、薬王院は本尊薬師如来を中心とした修行道場でもあったようで、護摩修行をした僧侶の残した護摩札が数多く残され、中世からの薬師信仰が江戸時代にも引き続き行われた事を証査している。

このようにして、代々の領主の帰依が深く祈祷寺的性格が強かった薬王院であるが、明治以降は菩提寺としてのあゆみを進め、お田植祭り等を通じて、市民との接触を深めている。尚、薬王院では、本堂が国指定重要文化財、本尊薬師如来および十二神将と仁王門が茨城県指定有形文化財、松平亀千代丸墓塔・金剛カ士像(仁王)・四脚門が水戸市指定重要文化財となっている。

薬王院本堂

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